どうもしっくりしない考え方があります。
それは「利他心」、
「自分を利することばかり考えないで他人に
奉仕しなさい」
ということです。
一見正しいような気がしますが、自分を犠牲にして他人を豊かに
できるのでしょうか。
「あれほど面倒見てやったので恩知らずの奴だ」
こんな愚痴をよく聞きます。
これは結局自分のために面倒を見てやったという裏返しの証拠です。
全くの無私で他人に奉仕できるのでしょうか。
生物の個体保存本能から考えても無理というものです。
もちろん現実的には自分を犠牲にしてまで他人を助けている人も数多くいます。
厳密に言えば「自分が犠牲になっている」とは思っていないはずです。
それは「愛」という崇高な表現にすぎません。
それは立派な行為で尊敬に値します。
しかし、その無理(愛のない行為)はいつか自分自身を破綻させることにつながっています。
そこで「Win Win」などと言い出しました。
これはもっと難しいことです。
これらの話の根底には「競争」という概念が存在しているからです。
「競争」には勝ち負けがあります。
驚くべきことに日本人には「競争」という概念がなかったのです。
概念がないということは「言葉」がないということになります。
だから自分と他人の境界線も曖昧でした。
全体が自分であり、自分が全体という概念です。(全体主義ではない)
自分=他人、という信じられない境地だったのです。
「人間国宝」という概念もここから生まれました。
日本は世界で唯一奴隷制度のない国でした。
自分が豊かになることは他人が豊かになることとイコールでした。
辛くて苦しい時も、みんなが助け合いの心を持っていました。
そこには「利他心」という言葉さえありません。
日本はそんな稀有な国だったのです。
今でもその名残りは残っています。
震災が起こったとき、食料を並んで受け取る日本人の姿は外国人には
信じられない光景なのです。
この日本人の心の鋳型はどこからやってきたのでしょうか。
それはシュメール文明の遥か6000年前に興った「ウバイド文明」まで
遡らなければなりません。
「あなたがいて、私がいる」
「私がいて、あなたがいる」
「私はみんなのために」
「みんなは私のために」
なんと素敵な想いでしょうか。