月別アーカイブ: 1月 2012

最初の一歩

 

自分を変える小さな一歩

 人は誰でも「もっと素晴らしい自分」に変身したいと密かに思っています。
 そこで何だかんだとやってみたが、どれも上手くいかない、そんな経験をされたはずです。
 長い間つきあってきた自分自身を簡単に変えれると思うこと自体に無理があります。
 それは頭で考えていることと、行動は別物だからです。
 別の言葉でいうと「意識」と「潜在意識」は対立しています。
 人前で話をすることが苦手な人がいきなり話せるようになるにはある一定の訓練がいります。
 どんな訓練かといえば、人前で何度も話をするという「繰り返し反復」をしなければなりません。
 「繰り返し反復」できるぐらいなら話ができるということになりますね。
 ということは「繰り返し反復」もできないのです。
 これはパラドックスですね。
 これを解決するには、最初の一歩を小さくすることです。
 まず一人の人の前で話をする、これならできます。
 一人に慣れたら二人、三人と数を増やしていきます。
 このように、最初の一歩を小さくすることです。
 片付け物が苦手な人は、まず目の前のものだけを整理します。
 読書が苦手な人は、毎日一ページだけ読むことにする。
 それもできない人は、曜日を決めて一週間に一度だけ小さな一歩を踏み出してみる事です。
 それもできない人は、最初からやりたくないひとです。
 これは「やりたい」がどうしても続けられない人のための小さな一歩です。
 もうひとつ決め手の技があります。
 小さな一歩を踏み出している自分を「イメージ」することです。
 「イメージ」は対立している「意識」と「潜在意識」を仲良くさせる働きがあります。
 イメージは映画のように鮮明に出る必要はありません。五感を伴う想像だけで充分です。
 さあ、今日から実験してみてください。
 一ヶ月ほどで、あなたは素敵な自分に変身しているはずです。

死ぬまで生きてやれ

 人間は必ずいつかは死ぬ。人生は有限であることをもう一度確認しておこう。

 死はいつ訪れるかは分からない。

 だが、死は平等に訪れることだけは確かである。
 生と死は裏表である。死を意識することによって生を浮き彫りにする。
 如何に死ぬかは、如何に生きるかということと同じである。

 いつ死ぬかは分からないが、どのように生きていくかは決めることが出来る。
 「死ぬまで生きてやれ」と、居直ることによって、反って楽になる。
 死は結果であって目的ではない、目的は如何に生きるかだ。

 一日いちにちを真剣に生き抜くことが、結果としていい死を迎えることになる。
 「死ぬまで生きてやれ」と居直ることによって、死の恐怖が少しはやわらぐものだ。
 生命に執着し過ぎると、死を超えた感動や喜びは味わえない。

 母親は自分の子供を危険から護るために命をも投げ出す。
 武士は主君のために切腹した。どうやら、人間には生命より大切なものがありそうな気がする。
 人生を真剣に生きている者にとっては、すでに死は超越されているのかもしれない。
 生と死はまさに一体である。

 「人生って魔法の世界だ」水口清一著・日新報道刊より引用

ようこそ〜「シンクロニシティーの世界へ」

  「偶然」は神様からの贈り物

     熊野のお灯祭りで偶然に撮れた「龍神」

仏教を開祖した、お釈迦様もこの世に偶然など無く、すべては必然の世界だと諭しておられる。

「偶然とはなにか?」
「私たちの自由意志とはなにか?」
「偶然と必然は同じものなのか?」

それとも偶然が必然を呼びこみ、必然からまた偶然が生まれているのか?
疑問は広がるばかりであるー。

偶然の向こうに必然の世界が広がっているなら、私たちの人生の意味もまた一段と違ったものになる。

この目に見えない偶然の世界を理解し、必然の世界に引き込むことができるなら、私たちはもうひとつの人生を歩むことができる。

「偶然の力」を利用して人生にツキを呼び込めないか?
もし、それが可能ならば人生に奇跡さえも起こすことができるだろう。