夢でみた戯言
今朝の夢は、今でもはっきり覚えています。
夢は時間と共に記憶が薄れて行くものですが
今もくっきりと思い出します。
何かのメッセージでしょうか。
以下は夢の中の話です。
鏡を持ってこない限り、自分の目で自分の目を
見ることは出来ませんね。
それなのに、夢の中で自分の目で自分の目を見ているのです。
主体が主体そのものを観察することは出来ません。
気が狂った人は自分が狂ってることが分からないはずです。
分かっていれば気が狂ったことになりません。
主体そのものを客体視することは不可能です。
私という主体が「私」を認識できないことになります。
「私が私を認識できない」
私が認識できないものは「無」と同じです。
まさに「無我」の状態です。
そうすると、私が私と認識している私は一体なんでしょうか。
ややこしい話をしてすみませんね。
夢の中で自分の目をみた奇妙な感覚を伝えたいからです。
「われ思うにゆえに我れあり」と哲学者デカルトは言いました。
「私がみているすべてのものが本当に存在していると
証明することはできない」と、デカルトは考えました。
でも、そんなことを考えている自分がここにいる
ことだけは確かだ、と。
夢の中で自分の目をみたことは、私にとって衝撃だったのです。
でも、目が覚めてから摩訶不思議で奇妙な感覚は残っています。
その状況は言葉で復元出来ません。
話は変わりますが
宇宙に存在するすべての物質は原子で成り立っています。
原子も原子核と電子で構成されています。
その原子を構成しているブロックが物理学では素粒子と呼んでいます。
光子や電子の素粒子は一兆分の一ミリメートルという極小の大きさです。
この超ミクロの世界を扱う物理学が「量子論」です。
「量子論」では、光子や電子は「波動であり、粒子である」ことを
発見し証明しました。
不思議なことに人間は「波動」を観察できません。
これは技術の問題でなく「量子論」の法則なのです。
人間が観察できるのは「粒子」のみです。
観察者が見ている間は「粒子」ですが、見ていない瞬間は「波動」に
もどります。
人間の意識が「波動」を「粒子」に変えているのです。
観察できない「波動」は数式によって、その存在を確認しています。
人間も当然「原子」「素粒子」によって構成されています。
そこで意識が「波動」だとすれば、「波動」という主体が「波動」を
見ることができません。
肉体は「粒子」なので観察できますが意識は「波動」なので観察できない
と考えることができます。
意識が「波動」ならば、宇宙の中に人間が存在しているのでなく
人間の意識の中に宇宙が存在していることになります。
人間が宇宙なら私たちには無限の可能性があるということですね。
これは私の戯言なので聞き流してください。
暑い日にややこしい話をして余計に暑くなったと思います。
夏の夜の夢物語です。