目標は万人の思いである
「『目標は万人の思いである』と強く信じることができれば目標を達成しようとする自分すら手段に過ぎない」
若き頃、熊野の達人に教わった。
当時はその深い意味が理解できなかったが、年と共に少しずつ理解ができるようになりました。
まだまだその言葉の深淵に達していないですが、身震いするほどの智である。
マヤの言葉に
「人生で出会う人々は、もう一人の自分である」という諭しがあります。
自分の目標が達成されたとき、多くの人々の幸せにつがっているかと自問自答したとき、自ずと答えがでてきます。
「万人の幸せにつながらない目標は我欲からでた妄想に過ぎない無我の境地に立ってこそ真の目標である」
熊野の達人はそう言いたかったに違いありません。
しかし私のような凡人にはそんな境地に達するには、はるか遠い道のりです。
欠点だらけの自分をあるがままに受け入れるしかありません。
あきらめではありません。
受け入れることとあきらめることは天地の開きがあります。
あきらめるのは自分の放棄です。
そんなある日、道元禅師のこんな言葉を見つけました。
「他はこれ吾にあらず 更に何れの時をか待たん」
この言葉は道元禅師の書かれた「典座教訓」という本の中に出てきます。
”他人がしたことは私がしたことにはならない
今やらずしていつやるのか”
というような意味です。
夏の暑い日差しの中で一人の老僧が茸を並べて干していました。
手に竹の杖をつき、笠もかぶらず汗だくになって作務(仕事)をしています。背は弓のように曲がり、眉は鶴のような白さでした。
見かねた道元禅師は「あなたはもうお年なのだから、誰か若い者にやらせてはいかがですか」と、声を掛けました。
このとき老僧から返ってきたのが上の言葉です。
若き日の道元禅師は、老僧の典座和尚(食を司る役目の僧)から諭され、仏道修行の何たるかを知ったということです。
中国に渡り、天童山で修行していた時の話です。
道元禅師の言葉に出会い
自分に与えられたお役目を一所懸命やるしかない
と、思えるようになりました。
そのことが「万人の思い」につながればと、今日も
自分の役目を果たしているだけです。