アサイド

瞑想の効用

起きてる現実空間の時間の速さと眠っているときの時間の速さは違います。

もちろん物理的時間ではなく意識の心理的時間です。

現実の一日の体験を、夢の中では数分で体験することが出来ます。

しかし映画の早送りのようにスピードを上げて見えてるわけではありませんね。

夢の中では現実空間と同じように時間が進んでいます。

この時間の速さは相対的であるという話は前回でしましたね。

もし目覚めることなく夢の中だけであれば、一生の出来事もほんの数分で体験してしまいます。

昔、中国の逸話で「邯鄲夢枕」というお話があります。

都に行く旅の途中、コウリャンを蒸すたった5分の間の転寝で、都で大成功をする夢を見て

すでに体験してしまったので都に行かずに、偉い高僧になったと言うお話です。

夢の中の空間と起きてるときの現実空間とは時間の速さが違うのです。

どちらの空間も感覚的には同じです。

新幹線の空間の話を思い出してください。

車内での歩行速度と地上での歩行速度は同じです。

違う空間(地上)から見れば、車内の人は204キロで歩いていることになります。

先ほどの話にもどると、傍から見れば5分でも、夢を見ている人は何十年と言う時間が経過しているのです。

交通事故のような命にかかわるような瞬間では、傍からみれば一瞬ですが本人の時間はとても長く感じます。

何かに衝突するまでスローモーションのように時間が流れています。

瞑想の習慣を持っている人の時間の流れはゆっくり流れているのです。

右脳にスイッチが入る田舎とか自然の中にいると時間はゆっくり流れている感じがします。

物理的時間は存在しているだけで流れていません。
人間の脳が流れを感じているのです。

そうすると時間の流れは主観的なものです。

私たちの人生は主観的時間の中に生きています。

右脳優勢の子供の時間は大人と比べて、ゆっくりと流れています。

睡眠時間の短い人は、活動する時間が長いように思いますが、ほんとうは短い人生を送っているのです。

歳をとると睡眠時間が短くなるのは、昼間の活動が少なくなるからです。

眠っているときの脳のメモリーと起きてるときの脳のメモリーは一定です。

眠っているときにたくさんの夢を見る人は、人生にもたくさんの夢のある人です。

だから眠りの「夢」と人生の「夢」は同じ漢字を使うのです。

自分を変え人生を変える方法として「瞑想」はなくてはならない行法です。

アサイド

個と全体の調和は延々のテーマである

個と全体はいつも対立を生み出しています。

個が存在するから全体が成り立ち、また全体が存在するから個の存在が成り立ちます。

例えば会社でも社員がいて会社が成り立つし、会社があるから社員も仕事ができるわけです。

人は一人で生きていくことはできません。
社会という全体の存在によって個人は生存可能です。

個が行き過ぎると無政府状態に陥り、全体が行き過ぎると個人の自由が束縛されます。

個と全体はいつも揺れ動いています。

私は物事の現象を「陰陽」で捉えています。

個=陰(自由を求める)

全体=陽(規律を求める)

もし「規律」がなければ、「自由」がなくなります。

道路交通法(規律)がなくなれば、街中事故だらけになるでしょう。
安心して走れるのは「規律」があるからです。

「規律」が過剰になれば、逆に自由に運転できなくなります。

この自由と規律はいつもバランスに向かっています。

すなわち、個と全体の調和です。

しかし現実は個と全体がいつも対立を生み出しています。

陰陽から見れば調和に向かって対立が生まれていることになります。

「国民は自由を求め、国家は法律で国民を縛る」

この対立が表に出ているのが「リベラルと保守」「左翼と右翼」という思考の軸です。

陰陽から見れば、そんな対立は存在しません。

陰は陽に向かい、陽は陰に向かうからです。

戦後レジームからの脱却を掲げる安倍総理が米国に追従して、日米の結束を強化するのは「矛盾と考えるか、弁証法で考えるか」によって未来が変わります。

私は陰陽的に見ているだけです。

そのうち(今でも)「リベラルと保守」「左翼と右翼」は逆転して、保守派はリベラル化し、リベラル派は保守化していくに違いありません。

個と全体は調和に向かって(陰陽の法則に従って)いつも動いています。時代によりどちらかに偏るのです。

「陽極まって陰となる」時代に、私たちは生きています。

アサイド

知識という鎧を身につけると
子供の頃は誰でも大きな夢を持っていました。
ところが大人になると、だんだんその夢が小さくなりやがて消えてしまいます。

それは「知識」で自分を縛ってしまうからです。
腰が痛くなったとしましょう。
そこで「知識」が頭を持ち上げます。

「重い荷物を持ち上げたからだ」
「悪い姿勢で一日座っていたからだ」
「寝違えたからだ」

と、次々と自分の知識で分析が始まります。
最後に原因不明で殻に閉じこもってしまいます。

こんな人にある知恵者がアドバイスをしました。
「それは春になって体が緩んだためですぐに治ります」

ところが腰の痛い彼は、アドバイスを聞くどころか知恵者をバカにします。
「知恵」のあるものは生命の真理を感じ、彼に投げかけただけです。
「知恵」は数々の体験や経験から真理を発見する心の動きです。
間違った「知識」を身につけてしまうと、「知識」という鎧を身に纏い「知恵」から遠のいて行きます。

「知識」が増えるほど判断が狂うためです。

正しい判断をするために「知識」を身につけるのでは?
その判断そのものがすでに「知恵」をなくしているのです。

人生の夢を叶えるのは「知恵」です。

決して「知識」ではありません。

「知識」を「知恵」に変えたときに初めて本当の「知識」を学んだことになります。

知識人の中に時折、人格的に歪んだ人がいます。
「知識」を持っていても人格を変えることができません。

しかし、「知恵」は人格を変えていきます。
「知恵」は体験経験から生まれてくるからです。

自分以外の体験や経験をした人はこの世にあふれています。

泳ぎの本を100冊読んでも泳げません。

泳ぐためには川や海に入り泳ぎを体験することです。

「知恵」のない「知識」は却って危険です。

「知識」という鎧さえ外せば、人生で出会う人は、みんな自分の師となる人々です。